地域の宝とは。。挑戦。

地域の宝とは。地域の文化や歴史とは。

地方創生の名の下によく聞かれるフレーズとなった。私は地元、秋田県横手市の宝は「挑戦する人」だと思っている。その宝が醸成される背景、つまり横手の文化とは「挑戦を支えるチカラ」にある。そして、彼らの挑戦や支えるフォロワーの動機の根源とリソースは「若者」、「子どもの未来」にあるのだと気付かされた。

この気付きは昨日行われたイベント「JCオシャンティ祭り」で得られた。このイベントは私も所属する一般社団法人横手青年会議所(横手JC)が開いたもの。
私はまちづくりを行っている立場で企画に参加していた。私が思う地域の最重要課題は「若年女性の減少」を改善すること。雇用問題以前に街の魅力不足を何とかしたいと思っていた。この想いから皆んなで話し合った。

街中でオシャレをして歩くこと。私は街にとってとても大事だと思っている。街の彩りとなるからだ。いつの日からかオシャレして歩いていると「浮いてしまう」と皆んなが感じるようになった。そして、車社会により彩りは消えた。

解決したい問題は多々あるだろう。それはここでは問題では無い。

大事なのは

  1. 沢山の人から声を聞き、まちづくりの中に組み込もうと考える人がいること(MIRAI・Yokotter)
  2. この想いを聞き挑戦し、やり遂げる人がいること(横手JC)
  3. 挑戦をサポートする人や企業がいること(学生・ボランティア・地元企業「美容室」「衣料品店」「協賛店」「駅前商店街」)
  4. 地域外の人々のサポートを得ること(秋田市美容学校等)
  5. 横手市始まって以来のレッドカーペットを市民、高校生が歩く市民参加型美容イベントに積極的に参加してくれた参加者
  6. 地域イベントに参加するという文化や新しい挑戦者を受け入れる文化を創ってこられた先輩方
  7. 同日にイベントを開催している人々がライバルではなく、共演者だと感じる雰囲気。
  8. そして、想いやこれらのことを気付かせてくれるソーシャルメディアの広がり
  9. イベントで最大の魅力となる若者たちと子どもたちの存在

この地域の宝がつながりを持って街に形成され始めている事実なのだ。

私は以前、横手市の強みも弱みも「お手並み拝見文化」にあると言っていた。それは「新しい挑戦を受け入れる」という文化と、でも「手は差し伸べはしない」という文化のことを総称して私がつけた言葉だ。

私のような変わった挑戦者は他地域であれば直ぐに「出る杭は打つ」の文化で小さくなったはずだ。しかし、横手市は違う。必要以上のサポートはしないが、自立できるなら頑張れというスタンスでスペースを分けてくれた。本当に素晴らしい文化だと思う。

そして、昨日、気づいた。「手は差し伸べはしない」とは私の間違いであったことに。ただ、私は助けて欲しいという声をあげていなかったことに。

横手JCの実行力、形にするチカラは本当に凄い。多くの協力者を集め、ゼロをイチにしていく。その中に飛び込み、想いを掲げてきて本当に良かった。「よこて冒険王」や「オシャンティ祭り」が生まれた。私は形にするところに何にも貢献できなかった。でも、嬉しかった。

地域の宝は「人」です。

それを支え、生んできたのが「文化」であり「歴史」そのものなのかもしれません。

私は特に「若者」「子ども」の大切さを感じています。昨日得た街のチカラをさらに地域の原動力として街に放たれていくように「日常」に変化をもたらしていきます。

「あなたのスタートが街のチカラに!」

応援します!

  

モビリティの未来

秋田に住んでいると自家用車を持たずに暮らすということが不可能な気がしていました。しかし、一家に一台は当たり前、一家に複数台あることも多く、実際の利用率はそれほど高くない車もあるはず。

このドイツのカーシェアリングの記事を読むと、地方でも意識しておこうと思わされました。

ベルリンでは、自家用車が人々のステータス・シンボルであった時代は終わり、クルマを共有(シェア)し、都市交通の最適化や環境負荷を軽減しようとする市民意識が人々の誇りとさえなっています。

上記の部分、「市民意識」をどう醸成していくかが地方都市の経営にも非常に重要だと思います。

connections

うーん。。自分のソーシャルメディアの使い方に無理が出てきたかなぁと思うようになった。それは既存組織や古くから存在する街の持続可能性を高めるということに意識を置くようになってからなのかもしれない。

TwitterやFacebookをはじめとする多くのソーシャルメディアに相性がいい人は、個人事業主等の責任を自分でとれる立場の人か、全く責任をとらなくていい人であることが多い。その中間に位置する人が世の中にはとても多く、中間管理職とか言われてもいるようだ。

ただ、今後は企業や組織が永続的に続くためには「個人の責任」というものを全員が意識している必要があり、受け取る側が「これまでの感覚」だと実に住みにくい世の中になるだろう。

「これまでの感覚」は「お客様は神様」という言葉にもあるように、絶対的な主従関係の中で刷り込まれてきたのかもしれない。「お互いを育んでいく」という意識を持てるようになれば過剰なクレームも無くなるのかもしれないが、主従関係という距離のあるお付き合いから、もう一歩近づいて信頼を相互に持てる世の中になればいいと思う。

中間管理職が大事な社会では「縦のつながり」が絶対的だった。これからは個人個人の「複数の強み=強み接点」で蜘蛛の巣のようにつながる、「Webのようなつながり」が組織では重要だと思う。

ただ社会全体が「Webのようなつながり」で球状の地球になるようなこともなく、「共感=テーマ」等を通じて強くつながる面のような組織・団体・仲間が存在していく。そしてその面同士が、必要時に「両方に共感する人々」によってつながり、協働する。

強結合である「リアルWEB結合つながり(Real Web Connection)」はそれらを必要時につなぐ「つなぎ手(Connecter)」によって接続と離脱を繰り返すのではないだろうか。

さらに成熟した社会になれば、また変化していくと思うが、しばらくこういう視点で物事を見つめてみる。ソーシャルメディアもこのために使えるツールのひとつに過ぎない。

Unruled

これまではソーシャルメディアは共感で人と出会える場だと思って続けてきた。それは危機意識の強さ、本質に対する感度の高さ、好奇心の強さ、など様々なコンタクトポイントに対して、些細な一言から一定の価値を感じ得たからだったのかもしれない。最近ではこういう面白さを感じない。おそらく余りにも多くの人が利用していること、ブログと何ら変わらないものとして利用する人が増えたこと、短期間で結果の出るビジネスツールとして使えると勘違いしている人などが増えたからかもしれない。
ソーシャルメディアの外向きの力はすでに著名人のものとなってしまった。これからは内向きの力を高め、組織としての利用による効果を発揮していく時期に来ている。スマートフォンの普及やNFCのiPhone搭載などが揃えばヨーイドンだ。
現在のような普及期に途中から来て果実を収穫するかのようにツールで稼ごうとする人もこれからは増えるだろう。黎明期に自らの成長を遂げた人々が得た学びとは全く違う学びだ。その差は年月を経て大きくなる。これまでの自分を変えることなく、ツールとしてソーシャルメディアを取り入れているようなところには本当の果実はならないだろう。本質はそれを使うことではないからだ。この黎明期で自分の何が変わったかを学ぶべきだ。そして、黎明期にソーシャルメディアに触れずにきた人々は少なくとも数冊のソーシャルメディアの歴史を感じとれる本を読むか、その本質を学ぶ機会を得るべきだ。これは遊び道具ではない。説明書もない。インターネットやモバイルツールの本当の力が開花し始めているのである。あらゆるルールが覆されていく時代だ。一時的に起こる unruled な世界観。怖がらずに楽しんでいきたい。

20130428-014917.jpg

グループウェア

現在、自分の周りのプロジェクトには主にFacebookグループを使ってきた。

サイボウズLiveも導入したことがあったが、軽快さが足りずあまり使わなくなってしまった。To Do や ガントチャートも簡易なものがあれば使いたいのだが。。。以前はBacklogも考えたがコミュニケーションを主体に考えるとちょっと違うかなぁと。。

Facebookグループで困るのは締切管理やタスク管理が全くできないこと。そこで色々と調べてみると「chatwork」が良さそうだ。少し試してみよう。