イベントで子どもを楽しませたいと以前はよく考えていた。動物園も水族館も。でも、いつからかキャンプに行ったり、一緒にサッカーをしたりと選ぶものを変えてきた。子どもが大きくなるにつれてその選択に責任を感じるようになった。
「非日常は大人が与えてくれる」
そうじゃない。自分で手に入れるものだ。大人が忙しすぎて、貴重な休みを「非日常」にしてしまうのはよく分かる。自分に時間の余裕を与えるまで、私もそうだった。
これは教育上、とても残念なことだ。
日常を豊かにしなければ。
どこで生きていくかなんて、いつ決めたらいいか誰にも分からない。決めたことでも、変えざるを得ないこともある。
どこでも生きていけるチカラ。
ここで生きていけるチカラ。
そんなチカラよりも
「どんな時も幸せを感じられるチカラ」
が欲しい。
たった一人のために幸せに生きた人生も、多くの人々に送られる人生もどちらも幸せに満ちている。
誰かとくらべたりしなくていい。
誰かのために自分が少しでも何か貢献し生きてきたなら幸せはそばにいる。あとは感じるだけ。
何も心配ないよ。
子ども達の寝顔を眺めながら思う。
地域の宝とは。地域の文化や歴史とは。
地方創生の名の下によく聞かれるフレーズとなった。私は地元、秋田県横手市の宝は「挑戦する人」だと思っている。その宝が醸成される背景、つまり横手の文化とは「挑戦を支えるチカラ」にある。そして、彼らの挑戦や支えるフォロワーの動機の根源とリソースは「若者」、「子どもの未来」にあるのだと気付かされた。
この気付きは昨日行われたイベント「JCオシャンティ祭り」で得られた。このイベントは私も所属する一般社団法人横手青年会議所(横手JC)が開いたもの。
私はまちづくりを行っている立場で企画に参加していた。私が思う地域の最重要課題は「若年女性の減少」を改善すること。雇用問題以前に街の魅力不足を何とかしたいと思っていた。この想いから皆んなで話し合った。
街中でオシャレをして歩くこと。私は街にとってとても大事だと思っている。街の彩りとなるからだ。いつの日からかオシャレして歩いていると「浮いてしまう」と皆んなが感じるようになった。そして、車社会により彩りは消えた。
解決したい問題は多々あるだろう。それはここでは問題では無い。
大事なのは
この地域の宝がつながりを持って街に形成され始めている事実なのだ。
私は以前、横手市の強みも弱みも「お手並み拝見文化」にあると言っていた。それは「新しい挑戦を受け入れる」という文化と、でも「手は差し伸べはしない」という文化のことを総称して私がつけた言葉だ。
私のような変わった挑戦者は他地域であれば直ぐに「出る杭は打つ」の文化で小さくなったはずだ。しかし、横手市は違う。必要以上のサポートはしないが、自立できるなら頑張れというスタンスでスペースを分けてくれた。本当に素晴らしい文化だと思う。
そして、昨日、気づいた。「手は差し伸べはしない」とは私の間違いであったことに。ただ、私は助けて欲しいという声をあげていなかったことに。
横手JCの実行力、形にするチカラは本当に凄い。多くの協力者を集め、ゼロをイチにしていく。その中に飛び込み、想いを掲げてきて本当に良かった。「よこて冒険王」や「オシャンティ祭り」が生まれた。私は形にするところに何にも貢献できなかった。でも、嬉しかった。
地域の宝は「人」です。
それを支え、生んできたのが「文化」であり「歴史」そのものなのかもしれません。
私は特に「若者」「子ども」の大切さを感じています。昨日得た街のチカラをさらに地域の原動力として街に放たれていくように「日常」に変化をもたらしていきます。
「あなたのスタートが街のチカラに!」
応援します!
公式や考え方を伝えることは難しい。問いに対する答えを求めている人は多いけれど。
空腹で困っている人にパンを与えるのではなく、小麦とパンの作り方を教えるべきだと言うのは分かるけど、それは本当に難しい。
私は日常の中に沢山の「公式」を求めてきた。そして、それを利用してきた。問いに対して自ら見いだした「公式」を使い、それを検証してきた。子どもを笑わせる公式もある。
学校教育の中で楽しかった授業は少ないが、物理の授業で公式の成り立ちを学ぶのは好きだった。
答えを伝えることはSNSや講演で可能かもしれないが、変化し続ける世界の中でその時々の公式を見つけ、検証する習慣をもたらすことはとても難しい。
学校教育の中で公式を使いこなすことはとても重要だとは習ったが、変化し続ける世界の中で「新しい公式」を見つける考え方は教わらなかった。
教わらなくとも身につく人もいる。しかし、少数だろう。公式を暗記して答えをミスなく出すことにばかり時間を割く学習から、「日常の中に真理(公式)を見い出す学習」と「自ら問いを立て真理を検証する学習」に大きくシフトすべきだと思う。
昨夜は兄弟げんかで大泣きする息子に寄り添い眠った。眠くて、イライラして、妹が片付けしないで、自分が片付けさせられていることに怒る息子。何で妹は片付けないのか、と。
片付けが苦手なのは父のせいだろう。怒られるから片付けているだけ。だから、妹は怒られるべきだ、と息子は主張する。明日になっても妹を許さないと荒げる。
辛抱強く片付ける目的を息子と考える。怒られるからじゃない、次に気持ちよく使えるために片付けるんだよ、と。
このままだと「注意する人」である親が居ないところでは片付けなくなってしまうのかもしれないという不安を抱いたから、私はずっと抱きしめながら伝えた。正しさで他者を裁く人生に幸せは訪れないと思うから。
おそらく、ただ眠くてイライラしていただけだろうけど、今晩、息子と一緒に眠ったことはずっと忘れない。
枕に顔をうずめて「明日、仲直りするよ」と言って彼は眠った。
豊かな日常。