幸せを感じるチカラ

どこで生きていくかなんて、いつ決めたらいいか誰にも分からない。決めたことでも、変えざるを得ないこともある。

どこでも生きていけるチカラ。
ここで生きていけるチカラ。

そんなチカラよりも

「どんな時も幸せを感じられるチカラ」

が欲しい。

たった一人のために幸せに生きた人生も、多くの人々に送られる人生もどちらも幸せに満ちている。

誰かとくらべたりしなくていい。

誰かのために自分が少しでも何か貢献し生きてきたなら幸せはそばにいる。あとは感じるだけ。

何も心配ないよ。

子ども達の寝顔を眺めながら思う。

日常から見い出す

公式や考え方を伝えることは難しい。問いに対する答えを求めている人は多いけれど。
空腹で困っている人にパンを与えるのではなく、小麦とパンの作り方を教えるべきだと言うのは分かるけど、それは本当に難しい。
私は日常の中に沢山の「公式」を求めてきた。そして、それを利用してきた。問いに対して自ら見いだした「公式」を使い、それを検証してきた。子どもを笑わせる公式もある。
学校教育の中で楽しかった授業は少ないが、物理の授業で公式の成り立ちを学ぶのは好きだった。
答えを伝えることはSNSや講演で可能かもしれないが、変化し続ける世界の中でその時々の公式を見つけ、検証する習慣をもたらすことはとても難しい。

学校教育の中で公式を使いこなすことはとても重要だとは習ったが、変化し続ける世界の中で「新しい公式」を見つける考え方は教わらなかった。

教わらなくとも身につく人もいる。しかし、少数だろう。公式を暗記して答えをミスなく出すことにばかり時間を割く学習から、「日常の中に真理(公式)を見い出す学習」と「自ら問いを立て真理を検証する学習」に大きくシフトすべきだと思う。

  

正しさ

昨夜は兄弟げんかで大泣きする息子に寄り添い眠った。眠くて、イライラして、妹が片付けしないで、自分が片付けさせられていることに怒る息子。何で妹は片付けないのか、と。
片付けが苦手なのは父のせいだろう。怒られるから片付けているだけ。だから、妹は怒られるべきだ、と息子は主張する。明日になっても妹を許さないと荒げる。
辛抱強く片付ける目的を息子と考える。怒られるからじゃない、次に気持ちよく使えるために片付けるんだよ、と。
このままだと「注意する人」である親が居ないところでは片付けなくなってしまうのかもしれないという不安を抱いたから、私はずっと抱きしめながら伝えた。正しさで他者を裁く人生に幸せは訪れないと思うから。
おそらく、ただ眠くてイライラしていただけだろうけど、今晩、息子と一緒に眠ったことはずっと忘れない。
枕に顔をうずめて「明日、仲直りするよ」と言って彼は眠った。
豊かな日常。